田沼意知の死~100年遅れた開国?


雛祭りの昨日、市ヶ谷周辺を散策した。市ヶ谷駅近くの市ヶ谷見附をスタート地点にして、怪談『番町皿屋敷』で有名なお菊さんが帯を引きずって走ったといういわれのある「帯坂」を登り、「東郷元帥記念公園」に向かった。

『番町皿屋敷』の伝説の残る帯坂

『番町皿屋敷』の伝説の残る帯坂

東郷元帥とは言わずと知れた日本海海戦でロシアのバルチック艦隊に勝利をおさめた東郷平八郎のこと。東郷元帥記念公園は東郷平八郎が1881年から住んだ邸宅の跡地で、50年くらい前までは蔵が残されていたというが、今では当時をしのぶものは何も残っていなかった。

東郷元帥記念公園の獅子石像

東郷元帥記念公園の獅子石像

次に塙保己一が建議して寛政5年(1793年)に設立されたという和学講談所跡を見学した。しかし、こちらも建物があったという痕跡は皆無であった。残念。
その途中、現在の大妻女子大の建っているあたりにあった「佐野善左衛門屋敷跡」に立ち寄った。

大妻女子大の入り口

大妻女子大の入り口

旗本の佐野善左衛門(政言)は幕府老中田沼意次の権勢が全盛だったころに、意次に賄賂を送って効果がなかったり、鷹狩りでの功を無視されたことを逆恨みして、天明4年(1784年)意次の子、田沼意知を江戸城内で殺害して切腹させられた。そのあたりの経緯を題材にして山本周五郎が小説『栄華物語』を書いている。

佐野善左衛門宅跡

佐野善左衛門宅跡

この事件のあと、田沼意次の勢いは急速に衰えて失脚し、松平定信に取って変わられる。佐野善左衛門の所業は松平定信一派の陰謀によるものだというのがほぼ定説となっているが、当時は田沼の賄賂政治を庶民も快く思っていなかったので、佐野善左衛門は死後『世直し大明神』などともてはやされたらしい。

田沼意知を開明的な考えの持ち主だと評していたオランダ商館長イサーク・ティチングは、意知の死によって、日本はせっかくの開国の機会を失ってしまったと書いている。(「ティチング日本風俗誌」より)

この時、佐野善左衛門に意知が殺されなければ、田沼親子による政権はずっと持続して、もしかしたら明治維新の100年も前に、江戸幕府は開国に踏み切ったかもしれないなどど夢想してしまうのは、自分だけかな?

ネット小説公開中

    

    

この記事が気に入ったら
いいね ! しよう

Twitter で
スポンサーリンク
広告レクタングル大

フォローする

スポンサーリンク
広告レクタングル大