『平賀源内を歩く』を歩いてみる


平賀源内は、二度目に江戸にやって来てから、約20年の間に、住む場所を転々と変えた。
『平賀源内を歩く―江戸の科学を訪ねて―』(奥村正二著)という本に、源内さんが住んでいた場所が書かれていたので、この本に載っていた略図を参考にして、現地を実際に歩いてみた。

白壁町住居跡

白壁町

源内さんが江戸に来てはじめに住んだのは、JR神田駅の東口のすぐ近くの白壁町である。源内さんはこの白壁町の住居を自分が会主となった「第五回東都薬品会」の事務所にした。このころ、同じく白壁町には浮世絵師の鈴木春信が住んでいて、源内さんと親しくしていたという。
ここには現在、今川中学校という学校が建っている。

長崎屋跡付近

長崎屋跡付近

白壁町から5分ほど歩いた現在のJR東日本橋の出口あたりのところに、江戸城に参内したオランダ人が定宿とした「長崎屋」があった。
オランダ人が江戸にやって来ると源内さんは毎年長崎屋を訪ね、西洋の知識を深めたという。

千賀道有屋敷跡付近

千賀道有屋敷跡付近

白壁町の住まいは、源内さんが二度目の長崎入りをしている間に、目黒行人坂の大火で焼けてしまった。
それで、取り急ぎ友人の千賀道有の屋敷を仮住まい宅とさせてもらう。千賀道有の屋敷は現在「十思公園」となっている「小伝馬町牢屋敷」と通りをはさんで、二カ所あった。
幕府の奥医師・千賀道有は田沼意次と古くから懇意にしていて、源内さんを田沼意次に紹介したのも千賀道有であった。

「平賀源内電気実験の地」の記念碑

「平賀源内電気実験の地」の記念碑

次に源内さんが移り住んだのは、清洲橋を渡ってすこし下流に行ったあたり。官医の武田長春院の下屋敷だったという。現在、この場所は会社の敷地内で「平賀源内電気実験の地」という記念碑が建っている。
当時はまだ清洲橋は出来ていなくて、神田の方へ隅田川を渡ろうとすれば、渡し船に乗るしかなかったらしい。

大和町代地住居付近

大和町代地住居付近

源内さんが三回目に引っ越したのは、大和町代地というところである。現在の清洲橋通りと靖国通りが交差するあたりらしい。

そして、1779年(安永8年)最後に源内さんが引っ越したのが、橋本町の屋敷。
ただ橋本町の源内さんの屋敷が具体的にどこにあったのかは、特定できていないようだ。
ここで源内さんは、刃傷沙汰を起こして、小伝馬町の牢獄に送られ、病死してしまう。

「平賀源内を歩く」略図から

「平賀源内を歩く」略図から

今回、自分が歩いてみて実感したのは、わりと狭い範囲のなかで源内さんは引っ越しを繰り返していたいうこと。さらに源内さんの住んでいたところと小伝馬町牢屋敷が本当にすぐ近くであったことだ。
江戸の下町って、思っていたより狭い世界なんだな。

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