秋田蘭画とさざえ堂


会津磐梯山

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飯盛山のさざえ堂

2012年11月、福島での仕事の帰りに少し足を延ばして、会津に行ってきた。

会津へは前々からあるものに興味があって一度は行ってみたいと思っていたのだが、なかなか機会に恵まれず、現地に行くのは今回がはじめてだった。

そのあるものとは何かというと、世界でもめずらしい二重らせん構造をもつ不思議な木造建築「さざえ堂」である。

郡山から会津若松までは磐越西線に乗って約1時間20分ほど。頂きににうっすらと雪が降り積もる磐梯山を横目に会津若松駅に降り立つとすぐに、さざえ堂の場所を尋ねるため駅構内の観光案内所に向かった。

ふらりと立ち寄ったこともあって、下調べしてこなかったため、不覚にもさざえ堂が白虎隊の若者たちが自刃して亡くなったのと同じ飯盛山にあることを観光案内所で教えてもらうまでまったく知らなかった。いやあ、お恥ずかしい。

この日の会津若松の町は平日だったからか2013年の年明けから会津を舞台としたNHK大河ドラマ「八重の桜」が始まるというわりには観光客の数が少なく、飯盛山、鶴ケ城ともゆっくり見て回ることができたのは幸いだった。

で、本題のさざえ堂の前に立った時の第一印象はというと、まず”異様”の一言に尽きる。
見れば当然、仏塔であることはわかるのだが、全体が妙な具合にねじれていて、非常に不安定な感じがする。過去幾度となくあったはずの大地震でよくもまあ崩れなかったものだと感心してしまった。

さざえ堂

さざえ堂

入場口でもらった栞によれば、さざえ堂は「寛政8年(1796)郁堂和尚が考案建立したもので六角3層高さ約16米、昇降別々のらせん形通路により階段がなく一方通行で上下するという日本唯一、世界でも例のない名建築」であるという。

当時は西国三十三観音を安置していて巡礼者で賑わったようだが、明治の廃仏毀釈のおりに神社系に変わったらしい。

寛政8年の建立ということは、幕末の戊辰戦争のころ白虎隊の若者たちも当然このさざえ堂を知っていて、変てこな建物だなと思って見ていたことだろう。

お堂の中を実際に歩いてみると栞に書かれていたとおり、通路の床面は階段ではなく滑り止めのついた少し急なスロープになっている。上へグルグルと廻って、てっぺんまで来るとそのまま下りのスロープにつながり、一階の入口と反対側にある出口へ向かう。

さざえ堂の内部

さざえ堂の内部

お堂の中を上り降りする人々が同じ通路を往復しないですむので、お互いぶつかり合う事がない。大変合理的な構造である。

実は当時の建築物でらせん構造をもつものは他にも結構あったらしいのだが、二重のらせん構造なのはさざえ堂だけだという。

さざえ堂とレオナルド・ダ・ビンチ

小林博士の新聞記事のパネル

小林博士の新聞記事のパネル

さざえ堂の入り口には、故日大理工学部教授小林文次博士の新聞記事がパネルに入れて掲示されていた。

小林博士は論文で「さざえ堂二重らせんの発想は、日本の仏堂建築の伝統から突如として異質の構想が生まれたとは考えられない。享保五年(1721)の洋書解禁によりオランダから輸入された洋書の中に、秋田藩主で画家であった佐竹曙山(さたけしょざん)のスケッチ帳にある二重らせん階段の原図がある。これはロンドン出版のモクソン(1627~1700)著の写しであり、これを通じて一部に知られている事実があった」といい、これとさざえ堂とのつながりはさだかではないとしながらも、さざえ堂の二重らせん構造が遠くレオナルド・ダ・ビンチに繋がる可能性を示唆している。

家にあった「日本の美術 no.327 小田野直武と秋田蘭画 」という雑誌を調べてみると、ヨゼフ・モクソン書の「実用透視画法」を原拠とした佐竹曙山自筆の「螺旋階段図」が掲載されていた。図版を見ると確かに二重らせんを描いている。

佐竹曙山(義敦)というのは、秋田藩の殿様であると同時に、藩士の小田野直武(おだのなおたけ)とともに”秋田蘭画”をおこした一流の武人画家でもあった人である。

曙山は、藩の財政改革のために平賀源内を招聘して、鉱山の調査にあたらせた。そのおりに、源内は秋田藩の支城・角館で小田野直武と運命的な出会いをする。

源内は直武に鏡餅を描かせた後に自分の描いた絵を見せて、上手に描かれた日本画風の直武の絵よりも陰影をつけた西洋画技法で描いた源内の鏡餅の絵の方がリアルに見えることを示し、直武を感服させたといわれるエピソードがある。

これをきっかけに、佐竹曙山の命をうけた直武は西洋画技法の習得のために源内に随行して江戸へと向かった。

その後、江戸で西洋画技法を身につけた直武は、ついに杉田玄白らが著したあの有名な「解体新書」の図を描くことになるのである。

先ほどの曙山の「螺旋階段図」の話にもどると、この絵は透視画法図解の一枚として「画図理解」という曙山直筆の西洋画論とともに収められている。

「画図理解」には陰影法とか遠近法などに触れられているほか、顔料やアラビアゴムについて源内からの引用が記されているとのことで、全般にわたって直武を経由した源内の知識がまとめられている。(「日本の美術 小田野直武と秋田蘭画」による)

また、源内の所有していた蔵書からの模写の可能性がある絵も含まれてるということであるから、もしかしたら曙山の模写したヨゼフ・モクソンの「実用透視画法」も源内が持っていた輸入書籍を借用したものだったのかもしれないな。

江戸時代の情報のネットワークは、現在の我々が考えているよりもはるかに広くて深いものだった。
郁堂和尚がこの曙山の「螺旋階段図」を何かの機会に目にすることがあって、さざえ堂の設計に生かしたとするのなら、ダ・ビンチ→モクソン→源内→曙山→郁堂和尚→さざえ堂と連なって、その方が和尚が夢に見て二重らせんを思いついたという説より東西文化交流のロマンがあって僕には面白い。

なお、らせんをめぐる東西技術交流のテーマは、科学技術史の研究家である金子務先生の原稿を故あって以前見せていただいたことがあり、なかなか興味深い内容だったので、いずれまた触れてみたいと思う。

鶴ケ城

鶴ケ城 かつての荒城に月が出た

※この記事は2012年11月に掲載した記事の再掲載です。

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